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インサニティ
JUGEMテーマ:小説/詩


 風は雨の香りを含み涼やかだった。いつもの夏よりも蝉の鳴き声が少ないと思った。めずらしくバスは定刻通りに平和台駅前を出た。朝の踏切ラッシュに掛かることも無く、まだシャッターの開かぬ商店街を抜けた。八月の初日、そろそろ人や道の空き始める頃だと思った。適当な空席を見つけ座ってからイヤホンを耳に挿し込んだ。或る著名人より愛用品として紹介されたものをまねた。そういうところが自分にはあった。それは耳腔にあたる部分が耳栓状となっている為、車内のアナウンスも話し声も外の音を何もかも遮断するのだった。耳の奥の鼓膜を揺らすのはただ音楽だけとなるので、僕はまるで音楽そのものとなり辺りを窺う目線のようだった。他の乗客たちは皆、黙っているようだった。黙ったきり、ただ駅までの道すがらを耐え忍んでいる風だった。
 踏切を左折し車体が大きく揺らいだ。UNKLEの6曲目が耳を伝い脳の後ろの部分で広がっていた。朝が遠退いていくようだ。
 バスが平和台幼稚園に差し掛かろうという時、窓の隅にはバス停に向かい駆ける女の姿があった。大きな車体は普段よりもゆったりと、女に手を差し伸べる様な減速をした。その女より先に、ごく小さな老人がゆっくりとした足取りで我々のバスへと乗り込んできた。背の曲がり浅黒い顔色の老婆はぶら下がるようにしてつり革に掴まっていたが、車体の小刻みな揺れにも足元を掬われそうな風であった。
 亡くなった祖母に似ていた。外の音は何一つ聞こえないのだった。静かな音色の渦が遮断していた。まるで一人、他の乗客たちの目には映らぬ者になっているのだと錯覚した。
 信号に停車する車内では、若い女が立ち上がり吊革の老婆の肩を叩いた。何事かをささやくようにすると、今まで自分の居た場所へと小さな老婆を座らせた。席を譲った娘は黒いノースリーブと腰に巻きつくような赤いスカートをはいていた。老婆は拝むようにして頭を下げていた。娘はおそらく今までずっと、そして今も大切に育てられているのだろうと思った。慈しむ様にされてきて、見ず知らずの老婆を慈しむ。何の疑いも無く老婆を慈しむ。娘には恋人がいて、その男は陵辱する。何の変哲もない日々を過ごしながら、人の目が届かぬと知るや己が欲望のまま勝手気ままに娘を陵辱する。男との事は彼女の誰にも言えない秘密だった。彼女を慈しむ穏やかな感情たちに、汚されていることを知られてはならないのだった。やがて彼らは幸せな結婚をする。秘密は無くなる。秘密など無くなるのだ。夏服の女。ピアノの、アンビエントな音色。陵辱していた恋人は長い間無垢の愛で女を育ててきた者たちをも陵辱するのだった。僕も彼らと同じところにいたならば、きっと席を立ったのだろう。何故なら老婆は、僕の祖母と似ていたから。
 幾度かの小路を曲がっては、ようやくバスは駅へと辿り着いた。出口の扉は折れ曲がり開け放たれた。下水の匂いがした。
 赤いスカートの娘は一目散に、駅へと駆けて行った。相変わらず浮かんでいるように、切り離されて音自体であるふりをしているのだった。僕を通り抜けすり抜けて、誰もが改札へと吸い込まれていくのだった。
 三郷の辺りは掘り起こされたり草の生い茂ったままの荒地がいくつも臨まれた。そのくせ大きな真新しいオフィスビルが建っているのだった。さほど混雑もしていない電車の、窓を正面に迎え入れる位置に立った。いくつかの新品のマンションが寒々しかった。荒々しい電線たちの向こうでは美しくも無い空が朝の陽を湛えていた。充満し堪えきれぬ風に。ただそれを遠くから眺めていた。気が楽だった。手も足も出ない。悲劇や喜劇。車体が揺れ乗客たちはのけぞる。窓の外を見てい続けることは至福だった。退屈など感じようはずも無いのだった。人と話すのがあまり好きでは無いので気も安らぐのだった。いくらでも見ていられる。同じ風景であろうとも。間違いなく僕を連れて行ってくれるから。風景たちには何一つの音も無く、自分はと言えば音の漠然の渦中に在り、ただ通り過ぎていく恍惚そのものであった。この数年、意味などを求めることには無意味しか見出せないでいる。僕の見る景色は僕そのものを映し出していた。電車は八潮を抜け地下に入った。
 おかしなことが起きている。まるで自分は他所にいるようだ。いつからか誰かの生の脇に潜んでいるようになっていた。地下トンネルのガラスには、ぼんやりとした風貌が反射していた。言葉を持たぬ者の、そのぼんやりとした顔が映っていた。いつも、一体誰のことを言っているのか分からずにいる。僕よりも頭一つ背の高い坊主頭の高校生たちが一体ずつ、彼ら自身も気付かぬ内にきれいなシンメトリーで両脇に立っていた。吊革を握る腕の振り上げ方も左右対称だった。寺社の門を守る像たちの風に見え微笑ましいのだった。電車は洞穴の中で更にスピードを上げ、いくつかの駅を通過した。老人と子供を駆逐するスピードだった。僕は僕の生にあるとは確信できないのだった。耳の音にただ在る静かな音符たちが、曖昧そのものである僕を不安の底へと引き擦り込むのだった。
 北千住の手前より電車は徐々に減速し、左右に車体を揺らしながら再び地上に至った。窓枠とビルとの隙間から、辛うじて東京の空を望む事は出来たが、どこまでも濁り切った扁平な色合いでしかなかった。北千住で慌しい乗換えをしなければならない。相変わらず外の音たちから閉ざされたままで、僕の動作は緩慢だった。あの薄汚れた空を越えた向こうに、果たして先があるのかも疑わしいのだった。吊革に掴まったままの癖に、なぜだか僕は少しまどろんでいた。電車が更に減速した。車体が揺れ、人々はのけぞる。僕だけの甘やかな時間がもうすぐ終わるのだった。

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